髙嶋音楽事務所社長 髙嶋弘之のブログや様々な人々との対談を掲載。

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コネ

コネ

 私は、昭和34年12月1日に、東京芝浦電気株式会社(現東芝)のレコード事業部に入りました。当時、東芝が新しくレーベル契約した「KAPP」レコードの担当ディレクターとしての途中入社でした。
入社と言えば聞こえはいいのですが、雇われているほとんどの者は正社員ではなくて、営業部員などの給与明細には、「荷造り梱包代」と書かれていました。私の場合は、「演出料」でした。早稲田大学第一文学部文学科演劇専攻卒とすれば、この「演出料」はぴったりだったのかも知れません。
 
 早大を昭和32年に卒業した私は映画監督になるべく、尊敬する木下恵介監督が所属する松竹映画の助監督試験を目指していました。といっても、助監督試験は毎年ある訳ではなく、やっと昭和33年の年末にありました。映画人口が13億人の時です。応募総数は確か2千人を越えていたと思います。書類選考で千人近くが残り、松竹大船撮影所近くの小学校を借り切っての筆記試験でした。
 
 みんなに「嘘だろう」と言われますが、幼稚園に入った時私は、「世の中は、こんなもんだろう」と思いました。「世の中訳あり」と思ったのです。
 
 助監督試験に際して、幼稚園児の時に思った「訳あり」を実行に移しました。その頃、父親が囲碁の大本山、日本棋院関西総本部で働いていましたので、当然父は数多くの棋士と親交がありました。そのうちのお一人が、松竹の城戸社長の碁の先生をしていたので、その方に連れられて城戸社長にご挨拶しました。さらにその頃、今でいうところのナレーターとして人気絶大だった徳川夢声さんが、やはり城戸社長と親しかったので、その線からも助監督になれるべく地固めしました。
 
 筆記試験は、千人近くを蹴散らして「48人の面接試験」に入りました。「万全のコネ」、
もう入ったも同然。面接には堂々と臨みました。面接試験管は、当時の助監督、大島渚、吉田喜重、篠田正浩などが並んでいたのではないでしょうか。
 
 助監督新試験をパスしたのは8人。40人が落ちました。私は40人の中に入っていました。面接までいった私です。コネは盤石。納得出来ません。何故落ちたか、訊きに行きました。答えは、「コネがあったらから、面接まで行けたんだ」。残念ながら納得しました。しかし、相当時間が経ってからは、「俺の才能を妬んで、大島たちが俺を落としたんだ!」と言っています。
 次回は、いよいよレコードマン人生のスタートです。
 
「世の中は、こんなもんだろう」-4歳の私。すでにビートルズカット。

インタビューが掲載中です。

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現在発売中のMONOマガジン(11月号)に社長・高嶋弘之のインタビューが掲載中です。 同雑誌は、全国の書店と一部のコンビニエンスストアなどで販売されています。 スタッフより  

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