髙嶋音楽事務所社長 髙嶋弘之のブログや様々な人々との対談を掲載。

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コネは続くよ。

 さあ困った。完璧なコネで臨んだ松竹映画の助監督試験に落ちてしまった!
 32年の4月から、早大演劇卒の友人の多くは、NHK、ニッポン放送、大映映画、朝日新聞などで働き出していました。焦り出していた頃、東京芝浦電気レコード事業部が「ディレクターを募集している」との情報を得たのです。
 
 27年に新東宝映画のニューフェイスに合格した兄の忠夫は、28年に井上梅次監督の「恋の応援団長」でデビューしてから順調に伸び、32、3年頃には、東宝に移籍して、「東宝ミュージカルス」で、越路吹雪さんたちと共演出来るまでになっていました。
 レコードも、ビクター・レコードから「8等身の美男歌手」の売り文句で「パパヤ・ママ」、「パパ・ラブズ・マンボ」などが発売されていました。
 ところがビクターに政変が起きて、兄は文芸部の部長クラスのスタッフと共に東芝のレコード事業部に移籍していたのです。「ディレクター募集」の情報は、兄からだったのです。
 
 兄は、神戸高校(旧神戸1中)時代から関西学院大学にかけて、神戸の進駐軍の将校クラブでジャズ・ドラマーとして活躍するぐらいで、演奏者としてだけでなくジャズには大変詳しかったのです。「ジャズ通、髙嶋忠夫」の弟という事で、ディレクター試験の面接に呼ばれました。
 
 恐らく筆記試験があったら、落ちていたでしょう。大変運が良い事に面接者は、洋楽課主任の二荒(ふたら)さんでした。当時キャピトル・レコードを担当されていて「人を疑う事は全くない」という方でした。ジャズの事を訊かれたら困るなあ、と思っていましたが、ジャズに関する質問は全く無く、「英語はどうですか?」と訊かれました。私は中学2年の時、英語の先生と大喧嘩になって、英語に熱が入らなくなってしまい、英語は不得手。早大に入った時には、将来フランス語の出来る演出家になろうと考えていましたので、フランス語はかなり力を入れて勉強していました。
 だから「英語は?」と訊かれた時、「英語はともかくとして、私はフランス語には自信があります」と矛先をかわしました。二荒さんは、「うちにはシャンソンがあるから、フランス語が出来るのは助かるなあ」
 
 兄のコネと神様のような二荒さんのおかげで、34年12月1日、東京芝浦電気(株)レコード事業部に入社。数日はのんびりしていていいのかなあと考えていたら、とんでもない、二荒さんから「髙嶋君、これ訳してプロフィールを作って下さい」、と洋楽の歌手や演奏家の英語プロフィールを沢山渡されました。英語も出来る、という事で入っているのです。今更、一語一語辞書を片手にという訳にはいきません。
 大体プロフィールなんて代物は、何年に生まれて、何年にどこそこで、というのが定番です。後はキャッチーに作り上げればオーケーです。知っている単語を頼りに、私の想像力を発揮。
 すばやく書き上げて提出。早いなあと二荒さん。そして助かるなあと。その後、私作のプロフィールが歌詞カードなどに掲載された時は、ぞーっとしました。
8歳頃の私。

インタビューが掲載中です。

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現在発売中のMONOマガジン(11月号)に社長・高嶋弘之のインタビューが掲載中です。 同雑誌は、全国の書店と一部のコンビニエンスストアなどで販売されています。 スタッフより  

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巨泉さんを偲んで。

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 永 六輔さんに続いて、大橋巨泉さんが亡くなられました。テレビで大活躍されるようになってからは、滅多にお会いすることはありませんでしたが、昭和35年頃でしょうか、私が東芝レコードの洋楽ディレクターとして働いている時には週に何度もお目にかかっていました。   私と同じ昭和9年生まれですが、巨泉さんは3月生まれなので学年は1年上。早稲田の先輩で、体格も立派な方だったのですごいジャズ評論...

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そろそろ、私のビートルズ・トークもお終いかなぁ。

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 シンコーミュージック主催の「ビートルズ 5 Days」は、今日で終了。50年前、ビートルズは、武道館公演を終えて、今日 7月3日 羽田空港を発ちました。5 Days の最終日は、私が喋りました。私の話は、いつもノー原稿で思い出すまま喋りますので、いつもどの話が長くなるか、分かりません。今日のお客様は、完売ということでしたが、35名の方が集まって下さり、喋り始めから乗りが良く、大笑い...

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