髙嶋音楽事務所社長 髙嶋弘之のブログや様々な人々との対談を掲載。

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キャニオン・レコード

​ ビートルズの日本独自盤「Japan Box」の発売を機に、数多くのラジオなどで50年前の当時を色々語る事となりました。当然ながら当時の自分に戻って喋ります。気分は28歳頃の私です。
 何故か急に「キャニオン・レコード」創立時について喋りたくなりました。いや「これは語っておかなくては」と、長年レコード業界に身を置く者としての思いにとらわれました。
 
 1966年にビートルズ来日後、後輩の水原にその担当を譲り、和製ポップスの担当ディレクターとなりました。つまり翌年の1967年2月発売から、黛ジュン、市川染五郎「現・松本幸四郎」、ザ・フォーク・クルセダーズ(北山修、加藤和彦)、ザ・ロック・キャンディーズ(谷村新司)、ザ・パニックメン(都倉俊一)、ザ・リガニーズ(新田和長)、そして由紀さおりなどをデビューさせました。そしてミリオン・セラーは「帰ってきたヨッパライ」、「夜明けのスキャット」。黛ジュンの「天使の誘惑」では第10回日本レコード大賞を獲得しました。ポップスの新レーベル「エキスプレス」、その後のニュー・ミュージックの原点ともいうべき「カレッジ・ポップス・シリーズ」も立ち上げています。
 我ながら驚くのですが、たった2年間でこれだけの事をやりました。その後ニッポン放送からの誘い、つまりは引き抜きにあったのですが、1969年11月末に退社しました。
 
 12月にはロサンゼルスに遊学。1年間という約束でしたが、半年で日本に戻りました。その頃、ニッポン放送は、「8トラック」のカーステレオ(ミュージック・テープ)を売出し、その後はカセット・テープへと発展。レコード会社の連中が、レコードしかない頭にない時にあっという間に、「ポニー」の売り上げは大きく伸びていました。文化放送も渡辺プロダクションと組み、ミュージック・テープの会社「アポロン」を立ち上げて、これも業績を伸ばしていました。
 
 音源は何も無いのに、なぜ売上を伸ばすことが出来たのか。答えは簡単です。先程言いましたように、音楽のメディアはレコードしかないと思い込んでいたレコード会社に、ニッポン放送の石田専務は見事に食い込んで行ったのです。
 「音源をお貸しください。テープで発売させてください。その見返りとしては、ラジオで宣伝させて頂きます。」レコード会社は「どうぞ、どうぞ」という訳でした。しかし、いくらボンクラのレコード会社経営者たちも、「音源貸し出すのは、まずいのでは。」と感づき始めました。そのあたりの風を読んだのが石田専務で。「音源会社」つまりは「レコード会社」を創らなくては、と思われたのです。
 
 そんな時、フォークルの「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットで結果ニッポン放送を大儲けさせていたので、私が引き抜きの対象となりました。1970年ロスから帰国後、新しいレコード会社設立に参加する事になりました。
 「キャニオン・レコード」誕生という訳ですが・・・・・次回にお話しします。
 
 
 

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